というのは冗談で、他ゼミと合同フィールドワーク(FW)で東京ジャーミイに来ています。ここは、トルコ共和国との縁深き渋谷区のモスクで、もう何回も来ていますが、今年は特に暑かった。代々木上原駅からすぐなのですが、その軽い坂道もしんどいくらいに。
モスクに入る学生たち
今回は、ガイドの方が、建物の成り立ちや現況の紹介よりも、イスラム教徒と実際にコミュニケーションをとってみる時間を大切にする、というご方針を立てられたようで、モスク内にいる信者の方々に次々にお声がけしながら「あんたどんなひと?」とインタビューしていく祈りに来ている信者さんにとってはとんでもなく迷惑なツアーとなりました。私たちは楽しかったですけれどね。
インドネシア出身の大学生の方、セネガル出身の小学校3年生のお子さんとそのパパ(バスケットボール プレイヤー)、内モンゴル出身の方、アルジェリア系アメリカ人の方、私はイラン系アメリカ人の方と富士山の登山について熱く話が盛り上がり、というように盛沢山なFWとなりました。
モスク内でしばらくチャイで歓談し、そのあとはみんなでJICA食堂でご飯を食べて解散。学生諸君、信仰によって結ばれた共同体について良い経験をしましたね。「国籍」とやらを軽々と超えるイスラムのつながりに圧倒されました。
日本では「宗教」というとヤバい人が信じちゃってるヤツとみられがちです(特に若い世代ではそんな思考回路を持つ方が少なくないと思います)。でもそんな方はぜひ新渡戸稲造の『武士道』の冒頭だけでもお読みください。宗教がなぜ必要かが書いてあります。
宗教というのは、なんだろ、善悪の基準だったり、さまざまな倫理的な課題に直面した時の寄る辺となるものなので、グローバルな視点では非常に大切にされているものです。前述の著書で新渡戸稲造は武士道を宗教に変わるモノに見立てて話を展開するのですが、もう日本に武士はいませんから武士道はもはや日本の倫理の基準にはなり得ないことになります。腹を切るのも痛いし、飛び出てくる自分の腸とか見たくないですよ。
それでも、特に既存の宗派が既得権益や公権力と非常に近いことが日本の若い世代をへきえきさせているところもあるようです。宗教社会学の講義時に学生から多くの指摘がありました。宗教が時の権力とこねこねしていた(している?)例が少なくないのは事実なので、曇りなき眼を持つ若い世代にしてみれば、なんとなくうさんくささを感じるのでしょう。若い世代だけでなく、昔から「坊主丸儲け」なんていう良くない言葉もありますね。でもその丸儲けモデルは江戸時代に作られたシステムによるところが大なのでまもなく終焉を迎えると思います。多分に宗教、特に既成の仏教において、精神史的に日本はようやく近代を迎えることになるのでしょう。墓を「人質」とした檀家制度は風前の灯ですし、家を単位とする信仰から個を単位とする信仰へ。そうした新しい信仰のカタチへのメンタルの基盤は「推し活」などが培養器となって育まれる、のかな。個々の価値観に沿い、応える宗教が求められているのでしょうね。