3月10日
東京下町では忘れることのできない大空襲の日です。
たとえばわが家では、親が自分で墓参することができないとき、
豪雨であっても、雪が降っていても、かまわず僕は私用の有無を問われることなく「行ってこい」と命じられ、親に代わってこの日に墓参したものです。
大雪の日に墓参したときは、「こんな大雪の日に行ってくれたのか」と祖母が大泣きしたことを想い出します。
東京大空襲では10万人以上の市民が死にました。いや、殺されました。木造建築である日本の家屋をどうすれば効果的に燃やすことができるか。空襲を指揮した米軍人カーチス=ルメイは、日本にゆかりの深い建築家、F=L=ライトの弟子、A=レーモンドの協力のもと、着弾すると燃え上がり、コンクリートまで燃やす焼夷弾を開発し、東京大空襲に臨みました。ベトナム戦争で用いられたナパーム弾と同じ原理の兵器です。
総力戦であれば市民の殺戮も当たり前?
日本も重慶(中国)などでやっていますから、連合国の側からすれば当然の報復なのかもしれませんが、想像を絶する非戦闘員に対する大量殺戮として、広島、長崎と同じように、東京下町ではその記憶を紡ぎ続けています。
祖父や叔父・叔母、この血族に当然僕は会っていませんが、東京大空襲で殺されてしまった我が一族の人びとです。焼夷弾の直撃に近い攻撃を受けた祖父の遺体は燃え上がって判別がつかなかったと言い伝えられています。わずかに残っていた時計で祖父と判断されたとも。
さて、今年。
この3月10日を待つように、あるいはかの人びとに呼ばれるように、また1人肉親が旅立ちました。この日に因縁を感じざるを得ません。
僕はいま、沖縄・台湾から東南アジアへ延びる公共空間研究に乗り出していますが、一方で東京下町、群馬のコミュニティ・デザインに従事しています。前者はコミュニティ研究の基礎研究として、後者はコミュニティ研究の実践として。
後者の、特に下町のコミュニティ・デザインに没入する思いは自分の祖先の地であることに由来するのですが、2020年3月10日は、1945年3月10日と同じく、忘れることのできない日となりました。
その忘れることのできない思いがモチベーションを高めます。
昨年末、僕は下町のコミュニティ・デザインから埼玉のそれへシフトする機会を与えられましたが、我が一族の持つ何かがその機会を遮断したのかもしれません。その機会は永遠に去り、シフトすることなく、スカイツリーをすぐ近くで仰ぎ見ることのできる下町を僕は駆け回っています。
3月10日。
ニーチェの言う「永劫回帰」という言葉を噛みしめつつ。