大学の近くに祠堂があって、そこには十一面観音様がいらっしゃいます。
学生の多くは「おじぞうさん」と呼ぶのですが、この機会に声を大にしていわなければなりません。石像の仏像をいっしょくたに「おじぞうさん」とか呼ぶのは止めましょう。
この十一面観音さま、厚い信仰を集めていて、お線香が絶えているのを見たことがない、といってもいいくらい、多くの方が参拝しています。一等地にあるわけではなく、偉いお坊さんがいるわけでもない。誰とも知れず皆さんが少しずつきれいにする気持ちを添えて、お花、お香、お水などの荘厳は清浄です。ピカピカの仏器ではありませんが、気持ちがこもっている空間で、誰をも受け入れています。
私はこのような祈りの空間を調査・研究してきました。机上のそれによるのではなく、十年の単位で野山を歩き回りながら。
そういえば、弘法大師・空海も若き日に野山を駆け巡って、雑密と呼ばれる密教のかけらを拾い集めては実践していたようですね。お大師さんのお力には及びませんが、そこかしこに神仏がおわしますというその感覚はなんとなくわかるような気がします。その感覚が祈りへとつながるのですが、こればかりは「外」で動き回った方でないとわからないのではないかと思うのです。
その私が思うに、この十一面観音様はとても大きなお力をお持ちのような気がします。今日拝見した観音様は、冬用の「どてら」を脱ぎ、初夏を思わせる陽気の中で静かにたたずんでいらっしゃいました。
祈る人が できるときに できることをして
きれいにされているのがわかります