2017年3月31日金曜日

ご報告 上武大学を離任しました

本日、上武大学(准教授/ボランティアセンター副センター長)を離任いたしました。
とはいえ、上武では引き続きゼミを担当し、群馬県立女子大でも公共政策演習等を担当しますので、何が変わるわけでもありません。
今年度も、高崎、新町、渋川をはじめとする群馬県内の各自治体と協働を積み重ねていきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

一方で調査・研究拠点を別所に移しますので、同地でのコミュニティ研究を新規に立ち上げ、自分としては基礎研究と位置づけている沖縄での集落研究を復活・継続させるつもりではいます。

これ、エイプリルフールではありませんので(笑)
上武大高崎キャンパス構内の桜が寒さに震えつつもほころんでいました。


2017年3月16日木曜日

森下ゼミは「たかさき環境パートナーシップ会議」の会員になりました

日付はもう昨日になりましたが、卒業式後に開催された「たかさき環境パートナーシップ会議」で森下ゼミは正式に会員として承認されました。

オブザーバーとして参加して3年。これまでの活動に対する評価をいただけて嬉しいですね。3代にわたる学生の奮闘を高く評価したいと思います。

コミュニティをデザインするにはただ1つの正解があるというわけではありません。
計画(デザイン)の前に調査をしても、その調査結果に基づく計画立案が必ず正しいというわけではなく、あまりに調査にこだわるとしくじることがあります。調査はあくまでも1つの参考に過ぎません。

計画の方向性を決定づけるのは、コミュニティの皆さんとの意見交換などから来る感情の総体をいかにつかむかにあると思います。この点が建築物の設計と大きく異なる点であり、コミュニティをデザインすることの醍醐味でありましょう。

学生に社会調査の手法をゼミで教えますが、それだけでなく「現場で感情の総体をいかにつかむか」という感覚(センス)を磨くことを課します。いわゆる「な・か・ふ・み」のプロセスで、コミュニティにじみ、かわり、かめ、つけるという過程を踏ませます。関わりが深くなって初めて明かされる人の想いというものがあるわけで、それは社会調査等で必ずしも浮かび上がらないものでもあります。もちろんそればかりでも困りますが、それでも私の研究室では関わりを深めるなかで見つけたものを大切にすることを方針としています。

これまで、新町、渋川、伊勢崎、沼田で私たちの研究室はこうしてコミュニティの課題を見出し、処方箋を描き、実践してきました。さて、たかさき環境パートナーシップ会議で私たちは何を見出し、どんな未来図を描けるでしょうか。楽しみです。

2017年3月15日水曜日

経営情報学部、最後の卒業生たち

本日、我が研究室の俊英たちが卒業しました。
地域になじみ、かかわり、深め、見つける、を実践した強者どもです。
大学での卒業式、卒業記念パーティと公式行事が続いた後、夕方に再集結してのお別れ会がありました。私の参加はそこまででしたが、2次会では日付が変わるまで飲んでいたようです。

特に渋川研究班の結びつきは強く、それは渋川の皆様からとても愛されたからでもあるのだと思います。全く知らない土地へ飛び込んでいっても、「思いは届くものなんだ」、「自分の考えや動きが地域に影響を与えているんだ」という実感は彼ら自身の有効性感覚を確かに育てたのだと思います。もちろん、それは大学の地元・高崎市新町でも同じなのですが。

心に残る一日でした。


2017年3月12日日曜日

渋川市中央公民館における定期利用団体作品展を企画・参加しました

昨年に引き続き、渋川市中央公民館の定期利用団体に企画段階から学生が参加し、あわせて作品展での絵手紙ワークショップを実施しました。

昨年から今年にかけて、現4年生が渋川の皆さんにご協力いただきながら卒業研究を書き上げましたが、その成果も展示いたしました。決して読みやすくない壁新聞形式の展示をよく読んで下さり、議員に渡すと言ってコピーを持って行かれた方もいらっしゃいました。卒論指導教員冥利に尽きる出来事でした。

受付に座って実行委員長と時間をかけてお話しさせていただいたり、公民館ヘビーユーザーの方のヒアリングにまわったり、昨年おかし交換をしたお母さんと再会して旧交を温め合ったり、昨年新町においでいただいたゲストの方と再会したり、本当に充実した3日間でした。もちろん公民館職員の方々と今後の展望を語り合ったことも。

これまで渋川の調査・研究に携わりながら、じっくりと腰を据えて住民の皆さんと向き合う時間があまりにも無かったことを猛省しています。自分の職掌の範囲を超えて他学部・他キャンパスの学生のキャリア指導という負荷があったりなど、本や論文もろくに読めぬ日々が続いておりましたから。こうした状況を来年度は正して行きたいと思います。

同じ方向を向いてくれている研究室の学生諸君にはただただ感謝するのみです。今日は片付けの後、渋川駅前のレストランでささやかな食事会を催し、その労をねぎらいました。「行こう、行こう」と言いながら行けていないゼミ長の実家にご挨拶に行きがてら、改めて沼田のフィールドワークについて計画を練ったり、卒業後のつながりをどう維持するかを話したりと、かけがえのない渋川の夜を学生諸君とともにし、上越線で帰途に就きました。


2017年3月11日土曜日

3.11 6年前の記憶

TVで放映されている3.11の記録映像は見たくない。
追悼する気持ちは自身に宿る感覚との同調によってのみ、そう在りたいと思っています。

6年前の今日、私は埼玉県にある大学で講義をしていました。春休み中の講義にもかかわらず十数人の学生が受講中でした。黒板に向かって板書していると、ひときわ元気な学生が「先生っ、地震っ!」と叫びました。

私は「なーに、すぐ収まるから・・・あれ、あれ・・・」と以下、何を言ったのかは記憶していません。覚えているのは、学生の背後にある壁が波を打っているように見えたことと、学生の頭上の蛍光灯を確認したことです。で、「テキストで頭守りながら机の下入ろうか」と言いながら、教室の戸を開け、教卓に戻って自分の荷物をまとめました。

大きな揺れが収まった後、今後の避難手順を確認しに廊下へ出ると事務職員が「すぐに建物の外に」というので教室に戻り、避難指示。学生とともに外に出てみると、卒業式の予行練習をしていた4年生たちが呆然としていました。

最寄りの駅までのスクールバスは出るが、電車は動いていないとのこと。
とりあえずバスに乗り、発車を待つ間に大きな余震。バスはゆさゆさと揺れました。出発すると、それなりに日常のまちなみがあるものの、信号はついておらず、警察官が交通整理をしているなど、非常事態が垣間見えました。

駅に着くと情報の通り電車は運転見合わせで復旧の見込はなく、停電した暗い構内では人々が駅員の「運転見合わせ」という叫び声を聞き、多くはなすすべもなく携帯をいじっていました。階段を下りてみると、路線バスは動いているようなので、隣の駅行きのバスに乗りました。滞りなく隣の駅に着き、その駅からまた隣の駅行きのバスに乗りました。しかし、ここで交通手段が途絶えました。およそ16時になろうとするとき、私は歩いておよそ35㎞離れた自宅に戻る決心をしました。

自宅まで街道一本。迷うおそれはない。
今から歩き始めれば日没前後に都内に入れる。
必要なものはかばんの中にある。

3月というのに寒い日でした。

しかし、まるでこの日を待っていたかのように、私の装備は万全でした。
結構な距離を移動しての講義が日常だったため、靴はいつでもウォーキングシューズ。
電話回線は複数用意。予備電源も。
かばんの中には非常食になり得るもの(カロリーメイトとのど飴)、手袋、ニットキャップ、マスク、タオル、使い捨てカイロなど。
かばんは3wayバッグだったので、リュック仕様にし、キャップを被り、手袋にマスク着用、歩き始めてすぐのコンビニで水を調達して歩き始めました。この時、まだ多くの人々は「歩いて帰る」という選択をした方が少なかったようで、気持ちよく街道を東京方面に向けて歩き始めました。途中、気分が高揚して走ったりしながら。

歩き始めると同時に、自宅にWi-Fi+Skype経由で連絡を入れました。iPhone(当時はSoftBank回線のみ)を使っていたのですが、どうせつながらないだろうと思い、iPod touch+Wi-Fi+Skype(SkypeOut)を使いました。これは携帯電話の回線がほぼつながらない状況下で有効な通信手段でした。たしか、イーモバイルのWi-Fiだったかな。今はソフトバンク傘下になってしまいましたが、資本の集中と集積は避けた方がいいと実感できますな。

この方法で円滑に自宅の固定電話と連絡が取れ、家の様子を聞いて安心するとともに以下のことを伝えました。
・街道を必ず通って帰ること、
・1時間に1回の目安で連絡を入れること、
・1時間に1回の連絡が途絶えたら連絡した場所を通過してから何かがあったと推測してくれということ。
このSkypeOutを通じての通信は最後まで生き続けました。音声もクリアでした。

街道を歩き続けると次第に暗くなってきたのですが、少し安心したのは街の灯が消えていないということでした。新座あたりで日が暮れたので、都内に入ったのは日没を過ぎてからでしたが、その頃には街道沿いを歩道に溢れんばかりの人が歩いていました。渋滞して動かない車の列を横目に。

歩いて帰宅を目指す人々は都内から埼玉方面へ向かってくる数が圧倒的に多く、私はその人の群れをかき分けるように進みました。意外なほど人々に悲壮感はなく、非日常を楽しむような雰囲気さえ感じました。それは多くの人々が友人や同僚などと一緒だったかも知れませんね。孤軍である私は大挙して押し寄せる対向者がわずらわしく、また歩行の速度を緩めざるを得ませんでした。しかし、まわりを観察する余裕は失っていなかったと思います。途中、倒壊しそうな建物が一軒あり、警察官が避難誘導していましたが、それ以外は震災の爪痕を見ることはありませんでした。

街道筋の自転車屋には人が殺到したようで、店員が売り切れを叫んでいました。後にも先にも、自転車屋の「売り切れ御免」を見たのはこれが初めてです。

歩きに歩き、ついに池袋の街の灯を見たとき、大げさかも知れませんが「生きて帰って来れたなあ」という思いがようやくしました。そこからはゆっくりとクールダウンするように歩きました。これから都内を脱出する避難者の方に心の中で「どうぞご無事で」と言う余裕もできて。

ようやく自宅に着いたのがちょうど今の時分です。野球少年の頃から愛用していたメーカー、ミズノ。ミズノのウォーキングシューズは無事に私を自宅まで帰らせてくれました。私を自宅へ戻してくれたシューズはボロボロになってしまいましたが、そのシューズとおそろいで買ったものがまだ現役です。家では「3.11モデル」と呼んでいます。

記憶が薄れつつありますが、私の3.11の記憶はこのようでありました。

あの震災で多くの方が亡くなり、傷つき、その痛みや苦しみは癒えることもなく、続いていることと思います。私が経験した避難路、わずか30㎞余の行程でも、家族と会えなくなることへの不安、仕事への不安、さまざまなストレスを感じつつの道行きでした。親しい方を亡くされた方をはじめとする被災者の方々はどれほどのつらい思いでしょうか。その思いに心を寄せたいと思います。震災に遭われた方、その後の原発事故の被害に遭われた方、皆様に安寧の日々が戻りますように。心からお祈り申し上げます。どうか。






地方への人の環流

東京ビッグサイトにおける企業の合同説明会に来て思うこと。

「シューカツ」そのものが商品になって久しいなあと。自分の世代が大学生の頃って、こんな大規模な「シューカツ」があったのだろうかなと。

一方で、これだけの若い世代の目を地方に向けさせ、そこに根づく生き方をライフ・キャリアにおける選択肢の一つとして考えてもらうことはできないかなと。テレワーク(強いて名づけるなら「通信制家内電脳労働」)の普及、喧伝されているAI搭載ロボットによる生産の拡大は、かつて自宅から引っ張り出された労働力を再び家内に返すことができるのでしょうか。

いずれにせよ、増え行く都市人口を地方へと環流させることが必要ですね。


付言として
人を驚かしてなんぼのもんじゃい的な現代建築なんか、無い方がいい。メンテナンス大変でしょうね、この建物。


2017年3月9日木曜日

公共空間としての公民館 渋川と沖縄と

本日は学生と定期利用団体作品展の準備をしながら、あわせて来年度の展望について公民館職員の方々と打ち合わせを実施いたしました。

私は、沖縄における神アサギ・トゥン研究から、コミュニティの公共空間研究に入りました。

神アサギやトゥンは古琉球から琉球王国、そして現在の沖縄県をつなぐ時空を越えた「場」ですが、そこには多くの場合公民館が設置されています。「民族の魂」とも言える場に公民館を同居させるところに沖縄の人々のアイデンティティを希求する心を感じることができますね。神アサギやトゥンは、旧来「祭祀施設」の意味を併せ持つ公共空間でしたが、琉球固有信仰の衰退もありましょうか、現代的な用途をさらに付加させて存在させる例が散見できます。「なくさない」という意志を確かに感じるのです。神アサギやトゥンには主として固有信仰に用いる建物もあり、これにヤマト(本土)化の象徴とも言える「鳥居」を付加する例もありますが、私見として、それはかつての台湾神宮、朝鮮神宮のように違和感を感じざるをえないものです。鳥居があるからといって、神アサギやトゥンがヤマトの神社と同じと考えるのは早急に過ぎ、神アサギやトゥンが多様性ある公共空間であることの意味を消失させてしまうものです。ウチナーンチュは自らのためにも、あれは神社ではなく、神アサギ・トゥンだと言い張ってほしいところです。

こうした神アサギ・トゥン研究は研究資金が尽き、据え置きの状態になってしまいましたが、近年のうちに復活させることができるでしょう。下調べとして、沖縄(琉球大学)で開催された学会の折に、ぐるりとやんばるを回り、国頭村の現況だけは確認できています。

さて、渋川中央公民館の皆様にはいろいろと提案を申し上げ、またご提案をいただきましたが、今年はさらに公民館に入らせていただき、上武の学生のみならず、さまざまな主体との協働を模索していきたいと思います。多様性こそ公民館の強みなのです。

「渋川の中央公民館はなんであんなにいろんなとこからいろんな人がくるんかね?」

このように評価されることに力を尽くしたいと思います。



画像 上は沖縄県国頭村安田の神アサギ(左)と公民館(右) 下は中央公民館4階からの眺め