2017年3月11日土曜日

3.11 6年前の記憶

TVで放映されている3.11の記録映像は見たくない。
追悼する気持ちは自身に宿る感覚との同調によってのみ、そう在りたいと思っています。

6年前の今日、私は埼玉県にある大学で講義をしていました。春休み中の講義にもかかわらず十数人の学生が受講中でした。黒板に向かって板書していると、ひときわ元気な学生が「先生っ、地震っ!」と叫びました。

私は「なーに、すぐ収まるから・・・あれ、あれ・・・」と以下、何を言ったのかは記憶していません。覚えているのは、学生の背後にある壁が波を打っているように見えたことと、学生の頭上の蛍光灯を確認したことです。で、「テキストで頭守りながら机の下入ろうか」と言いながら、教室の戸を開け、教卓に戻って自分の荷物をまとめました。

大きな揺れが収まった後、今後の避難手順を確認しに廊下へ出ると事務職員が「すぐに建物の外に」というので教室に戻り、避難指示。学生とともに外に出てみると、卒業式の予行練習をしていた4年生たちが呆然としていました。

最寄りの駅までのスクールバスは出るが、電車は動いていないとのこと。
とりあえずバスに乗り、発車を待つ間に大きな余震。バスはゆさゆさと揺れました。出発すると、それなりに日常のまちなみがあるものの、信号はついておらず、警察官が交通整理をしているなど、非常事態が垣間見えました。

駅に着くと情報の通り電車は運転見合わせで復旧の見込はなく、停電した暗い構内では人々が駅員の「運転見合わせ」という叫び声を聞き、多くはなすすべもなく携帯をいじっていました。階段を下りてみると、路線バスは動いているようなので、隣の駅行きのバスに乗りました。滞りなく隣の駅に着き、その駅からまた隣の駅行きのバスに乗りました。しかし、ここで交通手段が途絶えました。およそ16時になろうとするとき、私は歩いておよそ35㎞離れた自宅に戻る決心をしました。

自宅まで街道一本。迷うおそれはない。
今から歩き始めれば日没前後に都内に入れる。
必要なものはかばんの中にある。

3月というのに寒い日でした。

しかし、まるでこの日を待っていたかのように、私の装備は万全でした。
結構な距離を移動しての講義が日常だったため、靴はいつでもウォーキングシューズ。
電話回線は複数用意。予備電源も。
かばんの中には非常食になり得るもの(カロリーメイトとのど飴)、手袋、ニットキャップ、マスク、タオル、使い捨てカイロなど。
かばんは3wayバッグだったので、リュック仕様にし、キャップを被り、手袋にマスク着用、歩き始めてすぐのコンビニで水を調達して歩き始めました。この時、まだ多くの人々は「歩いて帰る」という選択をした方が少なかったようで、気持ちよく街道を東京方面に向けて歩き始めました。途中、気分が高揚して走ったりしながら。

歩き始めると同時に、自宅にWi-Fi+Skype経由で連絡を入れました。iPhone(当時はSoftBank回線のみ)を使っていたのですが、どうせつながらないだろうと思い、iPod touch+Wi-Fi+Skype(SkypeOut)を使いました。これは携帯電話の回線がほぼつながらない状況下で有効な通信手段でした。たしか、イーモバイルのWi-Fiだったかな。今はソフトバンク傘下になってしまいましたが、資本の集中と集積は避けた方がいいと実感できますな。

この方法で円滑に自宅の固定電話と連絡が取れ、家の様子を聞いて安心するとともに以下のことを伝えました。
・街道を必ず通って帰ること、
・1時間に1回の目安で連絡を入れること、
・1時間に1回の連絡が途絶えたら連絡した場所を通過してから何かがあったと推測してくれということ。
このSkypeOutを通じての通信は最後まで生き続けました。音声もクリアでした。

街道を歩き続けると次第に暗くなってきたのですが、少し安心したのは街の灯が消えていないということでした。新座あたりで日が暮れたので、都内に入ったのは日没を過ぎてからでしたが、その頃には街道沿いを歩道に溢れんばかりの人が歩いていました。渋滞して動かない車の列を横目に。

歩いて帰宅を目指す人々は都内から埼玉方面へ向かってくる数が圧倒的に多く、私はその人の群れをかき分けるように進みました。意外なほど人々に悲壮感はなく、非日常を楽しむような雰囲気さえ感じました。それは多くの人々が友人や同僚などと一緒だったかも知れませんね。孤軍である私は大挙して押し寄せる対向者がわずらわしく、また歩行の速度を緩めざるを得ませんでした。しかし、まわりを観察する余裕は失っていなかったと思います。途中、倒壊しそうな建物が一軒あり、警察官が避難誘導していましたが、それ以外は震災の爪痕を見ることはありませんでした。

街道筋の自転車屋には人が殺到したようで、店員が売り切れを叫んでいました。後にも先にも、自転車屋の「売り切れ御免」を見たのはこれが初めてです。

歩きに歩き、ついに池袋の街の灯を見たとき、大げさかも知れませんが「生きて帰って来れたなあ」という思いがようやくしました。そこからはゆっくりとクールダウンするように歩きました。これから都内を脱出する避難者の方に心の中で「どうぞご無事で」と言う余裕もできて。

ようやく自宅に着いたのがちょうど今の時分です。野球少年の頃から愛用していたメーカー、ミズノ。ミズノのウォーキングシューズは無事に私を自宅まで帰らせてくれました。私を自宅へ戻してくれたシューズはボロボロになってしまいましたが、そのシューズとおそろいで買ったものがまだ現役です。家では「3.11モデル」と呼んでいます。

記憶が薄れつつありますが、私の3.11の記憶はこのようでありました。

あの震災で多くの方が亡くなり、傷つき、その痛みや苦しみは癒えることもなく、続いていることと思います。私が経験した避難路、わずか30㎞余の行程でも、家族と会えなくなることへの不安、仕事への不安、さまざまなストレスを感じつつの道行きでした。親しい方を亡くされた方をはじめとする被災者の方々はどれほどのつらい思いでしょうか。その思いに心を寄せたいと思います。震災に遭われた方、その後の原発事故の被害に遭われた方、皆様に安寧の日々が戻りますように。心からお祈り申し上げます。どうか。