2017年8月15日火曜日

敗戦から72年目の日に

北朝鮮の核開発と政権が作り出す「危機」に際して。

乗せられてはならないとの思いを強くしています。


集団と個の関係を見つめるとき、この国を亡国の寸前まで追い込んだファシズムの基層をなすメンタリティがまだ活きていることを感じざるを得ません。そしてそれは私のなかにもあるのかも知れません。

思うに、ファシズムはうるわしい姿でやってきます。古語にいう「うるわし」、すなわち整然として秩序だった美です。これを美しいと感じる感覚、あるいは学校教育でしみこまされてきた「全体の秩序を個が紊乱すること」へのネガティヴな感覚もそうでしょう。甲子園でプラカードを持った生徒が倒れているにもかかわらず、近くにいる高校球児たちが微動だにせずに整列して秩序を乱さない光景が報道されていましたが、この社会の一断面を示す1つの象徴的な光景のように感じました。高校球児を批判しているのではなく、彼らは私でもあるということについて、自らに発する警鐘として。

ともあれ、敗戦から72年。

どのような考えを持つ方であれ、私たちの共通の思いは、二度とあんなに多くの人が亡くなったり、いたましいことに巻き込まれるようなことがあってはならないということではないでしょうか。私はそれを経験しておらず、親から、祖母から、そしてさまざまな学習から得てきた知識からそうした感性を育てたに過ぎませんが、人類の普遍的な思いに通じるのではないかと思います。

文部省が1947年に作った「新しい憲法の話」では「戦争放棄」として次のように述べています。
「みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」

立場の違いはどうであれ、原点に立ち返って「今」を考えることが大切なのではないかと思います。「新しい憲法の話」は数ある原点の1つだと思います。そんな思いをあらたに、父祖の地で、東京大空襲で被災してなくなったわが一族に、そしてそれに連なる人びとに祈りを捧げてきました。

敗戦後、祖母ひとりで何人もの子を育てるのにどれだけの苦労があったことか。こうした個人史と昨今の勇まし気な論調を秤にかけてみると、自分の拠るべき価値がどこにあるのかが明らかになります。

命(ぬち)どう宝。
命こそ宝。

こうした琉球・沖縄のアフォリズムがなぜ琴線に触れるのか。沖縄戦と軌を一にするわが一族の歴史があることに気づかされます。