2019年9月20日金曜日

頼もしき教員の卵たち

後期講義は非常勤先の社会科・公民科指導法からスタート。

以前は十数名のクラス構成だったのですが、昨今の好調な企業就職を反映して、数名の少数精鋭集団です。寂しくなった?いえいえ、この数名が意気軒昂でいつも励まされています。

夏休みどうだった?と聞けば、それぞれのフィールドを掘り起こしていて、その報告が面白かったです。大阪のお笑いをフィールドとしている者は何度も繰り返して大阪に入り、あるいは福祉系資格の取得のために長野の山奥で認知症の高齢者とともに過ごしていたり、はたまたバイト先で講義技術を磨いていたり。

この非常勤先の大学の学生とはよほど気質が合うのか、卒業後もつながりを保ち続けている例が多く、このクラスの学生とも同じようになることを確信しつつある昨今です。

講義は常に、いつのまにかソクラテス・メソッドに。今日はガイダンスで全体の講義計画を説明し、模擬授業の順番や内容について決めて終わるはずが、「社会科とは、奈良時代を教えながら現代を語り、熱帯の気候を教えながら生徒がいま生きている環境を教えるもの」の一言から現在の日韓関係と古代の朝鮮半島と日本との関わりについて話が及び、講義時間が延びる延びる。

学生の熱とはよいものです。
大学は学生がこれまで抱いていた価値観や世界観に「コペルニクス的転回」を与える場でなければならないと願っていますが、今日の議論の展開は学生にとってどうだったでしょうか。

大学から受け取るものがあまりにも少なく、大学入学以前と同じような軌道を学生に歩ませているとしたらそれはとても残念なことのように思います。自らの政治的立場を保守と自認する学生がマルクスを読み、あるいは芸術志望の学生がロシア・アヴァンギャルドの解釈から政治に目覚めたり、そうした機会の提供こそが大学の1つのあるべき姿のように思うのです。

このクラスの学生はやがて一教員として、市民として自立していくでしょう。親の助けを借りなくても、教員の助けを借りなくても、独立した一個の人格として自分の人生を切り拓いていく力を身につけるであろうという確信がもてる、そんな熱を彼らから感じながら、互いに議論を深める姿を見入っておりました。

幸先の良いスタートを切ることができたように思います。

教科書もカラフルになったもんだ