その本というのが、会ったときに会話に上った言葉を膨らませる内容。
具体的には、P.ブルデューの文化資本という言葉なのですが、彼が買ったというのは社会学そして哲学に関するレファレンス系の書籍でした。
僕の言葉を確かに受け取ったこと、そしてそれに対する強い関心を示していることを「本を買った」という表現で伝えてきてくれたのですが、最近これほど嬉しいことはなかったですね。
硬くて、論理を愛し、自分の原理原則を大切に生きているその様は、まるで若き日の僕を見るようでなんとなく面映ゆいのですが。
あの頃。
ジャズあるいはR&B、バーボンに煙草、いつもの酒場、おばちゃん、おねえちゃん、おにいちゃんがいて、そこで本を開き、友達と明け方まで議論し続けた当時。大隈講堂前で寝転びながら、あるいは生協前で川の字に寝ながら、始発を待ったあの頃。バカだったな。でも当時の早稲田はいかにバカであるかを競うようなところがあって、「秀才みたいなことは東大がやるから」という学風が漲っていました。「在野精神」という言葉もまだ脈々と生きていて、雑草であることが自分たちの宿命のように感じていたことも。
振り返れば直ぐそこにあるような気がするのに、もう数十年前の出来事。
さて、この「本を買った青年」のように、あるいはあの頃の学生時代のように、僕は貪欲に知識を吸収しようとしているだろうか。すでに持っているものを運用し、組み立て直すだけのつまらない人生になっていないだろうか。
若さと向き合うとは、こうした自問自答を含めて、自らの惰性に鞭を入れることでもあると思うのです。
おきにいりのカフェ@博多